空の殻から

夢を詰め込めなかった空の頭蓋に反響する虚無

暇と友人①

 何をすればいいのかわからなかったので、小学二年生の休み時間は数字を書いて過ごした。友達はいなかった。
 表紙にムーミンの描かれた「じゆうちょう」の白無地ページに丹念に、2Bの鉛筆で数字を書き並べてゆく。見開きページの左上、「1」から始めて「2」「3」と、下に向かって書き進んでゆき、下端に至れば右上方向に改行をして、更に続ける。
 どういった動機で数字を書き始めたのかについては記憶がない。体力と想像力を著しく欠いた子供が一人で暇を潰そうとするとだいたいそういうことになるのかもしれぬ、とは思う。とかく僕は、小学二年生にして自由を持て余していた。
 数字を描き始めてすぐ、あることに気づいた。達成感の存在である。数字を順に書き連ねていけば、十回に一回は小さなそれを、百回に一回は中くらいのそれを、千回に一回は大きなそれを感じることができる。時折現れるゾロ目や連番も良いアクセントになった。何も意味あることはしていないのに、何も難しいことはしていないのに、ただ淡々と向き合い続けるだけで何かを成したような気分を味わうことができる。素晴らしい暇つぶしだった。
 そんな奇行を続けているとあるときクラスメイトに話しかけられた。それ何してるん。「数字書いてるねん」うわ、すご、見てみ……。
 誇らしく感じたことを覚えている。当時の僕は登校してもほとんど喋らないまま一日を終えるような子供であり、他者からそんな風に注目されるのは初めてのことだった。人から話しかけられるのが嬉しくて、人の輪の中心にいるのが心地よくて、顔を上気させながら僕は紙面に数字を並べ続けた。地道に少しずつ高みへ上っていく僕を、皆が称賛し、応援してくれた。
 その当時の周囲の反応は、奇異の目で見られていたとか、揶揄われていたとか、そういったものでは断じてなかった。小学二年生にそのような複雑な機能は備わっていないし、文脈によっては虫を食べてもヒーローになれるのが小学二年生の世界である。ノートをびっしり埋め尽くす数字のビジュアルは、彼らをして「なんかすごそう」と思わせるに十分だった。少なくとも僕の中ではそういうことになっている。

 しかしそんな行為も周囲が飽きるのと同調して急速に飽きてしまった。果てしがないし、紙と時間の無駄だと思った。承認欲求を満たすためすっかり手段化されてしまったその行為からは、無意味さ故の自己目的的な神聖な喜びは喪われてしまっていた。
 再び空白が立ち上がってきたこの時期に僕は読書することを覚えた。そして承認欲求を満たすため頻繁に蟻を食べた。おおむねそのようにして僕は小学三年生になる。

(つづく)